レベッカの裏庭。

本について書く。

小川洋子「猫を抱いて像と泳ぐ」の分析・感想

 これはブログ主がサークルで発表した原稿から、個人情報とサークルで発表した意図についての説明を抜いたものです。小川洋子作の「猫を抱いて像と泳ぐ」の内容を大いに含みますので、未読の方はご注意ください。

 

 

 

 

1 著者と本作について。

 ○小川洋子

  1998年に海燕新人文学賞を受賞しデビュー。芥川賞本屋大賞読売文学賞など受賞歴多数。作風は幻想小説に近い。小説を書くときに一番重視していない要素は「ストーリー」だとし、「とにかく描写につきる」という。

 

○猫を抱いて像と泳ぐ

 2010年の本屋大賞で五位にランクイン。作者本人は「言葉という不自由なツールに頼らなくても、本当に人と触れ合ったと思える感触が可能だと、チェスを通じて描いてみたんです」と語っている。

 

2-1 本作をどう見るか

 

 今回は、本作において「美しいもの」「ほんとうに価値のあるもの」は何として描かれているのか、また、どのようにそれが描かれるか、について注目して見ていきたい。それを追っていく過程で、この物語がハッピーエンドかバッドエンドか、という結論を出したいと思う。

 

2-2 二回繰り返される構造

 

 今作で二回繰り返される構造がある。酔っ払いとチェスをしてポーンを失う、というものだ。

 一度目は、酒を飲み、たばこをふかしながら賭けチェスをしている男たちのところに少年が混ざってチェスをし、それがばれてマスターにたしなめられるシーンだ。これが結果としてマスターとの最後の日となり、次にマスターを尋ねて行った日には、マスターはなくなっており、回送バスは破壊され、猫のポーンはどこかに行ってしまう。

 二度目は、海底チェス倶楽部でウィスキー漬けの男とチェスをして、敗北し、人形“リトル・アリョーヒン”は破壊され、結果として人間チェスをすることになる。その人間チェスでポーンに扮したミイラを失う一連の流れである。

 最初に「ポーンを失う」と書いたが「居場所」もポーンとともに失うこともまた、重なっている部分である。一度目で言えば、物理的に回送バスを壊され、また、マスターという一番のよりどころを失った。二度目では人形“リトル・アリョーヒン”という物理的な彼の居場所が壊され、結果として海底チェス倶楽部を出ることになった。

 

 まず、ポーンについて考えたい。作中でポーンについて語られているシーンは意外と多い。

 

「でも一歩一歩前進する。後戻りはしないんだ。子供が成長するのと同じさ」(P50)

 

「出しゃばらないけど目立たない場所で大事な働きをする」(P51)

 

「ポーンはチェスの命だ」(P61)

 

「マスターを看取り、回送バスが壊されるぎりぎりまでマスターに寄り添い、その後はもう自分の役目は終ったのだと悟るかのように、潔く去っていったポーン。」(P142)

 

「一番小さくて、か弱い駒ですが、決して後退することなく、敵陣に向かって一歩一歩前進します。その控え目でありがながら着実な使命を果たすポーンにちなんで命名された猫なんです」(P338)

 

 ここで語られる、ポーンの性質すべてが本作における「美しさ」であると言っていいだろう。

 一歩一歩前進すること、出しゃばらないこと、でも大事な働きをすること、控え目でありながら、着実な使命を果たすこと、それらを一番価値あるものとして今作が描かれていることは、読んだ人であればみなうなずかれるのではないだろうか。

 

 逆に、酔っ払いに込められた意味はなんであろうか。今作では酔っ払いについて言及されている部分はほとんどない。しかし、その描写から感じることと、ポーンの反対ということで、私は「暴力」と「思考放棄」の象徴ではないか、と考えた。正しくは、暴力の言い換えとして酔っ払いが使われており、酔っ払いが持つ意味は思考放棄なのではないか、ということである。

この場合、思考といっても、ただ単に「考えること」を放棄するという意味ではない。ウィスキー漬けの男はチェスがものすごく強いのであるから、「考えて」はいるのだろう。しかし、彼からは「誠実さ」が感じられない。この場合の思考とはとりもなおさず、己の全力でそのものに向かうということであり、誠実さとも言い換えれるものである。

 

「いいか。よく考えるんだ。あきらめず、粘り強く、もう駄目だと思ったところから更に、考えて考え抜く。それが大事だ。」(P56)

 

「考えるのをやめるのは負ける時だ。」(P56)

 

「慌てるな、坊や」(P56)

 

 また、チェスはパスがないゲームであることからも、思考放棄が一番罪深いことであるのは汲み取れるであろう。

 

「チェスは自分の番が来たら、必ず駒を動かさなければならないゲームです。パスはありません。たとえポーンが一升前進するだけだとしても、常に盤上では駒が動き続けているんです。」(P312)

 

 このゲームがテーマの今作において、思考放棄が一番罪深いであるという発想はそれほど飛躍しているとは思わなかった。

 

2-3 リトル・アリョーヒンの友達について

 

 少年の友達には明らかな共通点がある。どこにも移動しない人だということだ。正確には人ですらないが。

 大きくなりすぎたが故に屋上から降りれなくなった像のインディラ。壁と壁の間から出てこれなくなったミイラ。動かないバスに住んでいたマスター。彼らのことを少年はこう語る。

 

「自分から望んだわけでもないのに、ふと気づいたら皆、そうなっていたんだ。でも誰もじたばたしなかった。不平を言わなかった。そうか、自分に与えらえられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身体を収めたんだ」(P181)

 

 文庫本版の解説にも「『仕方ない事情』は受け容れた方がいい。それも早目に。そのあとにお楽しみが待っているのだから、と仕方なくなってから七十数年過ごした僕はあらためて思う。」と書かれている。

 少年の友達の「仕方ない事情」に対する姿勢と、その中で自分のできることを投げ出さず、淡々と行う姿勢が非常に印象深い。諦めと受容に対する線引きがそこに示されていると思う。受容することの美しさに触れつつも、諦めることに対する否定を感じる描写である。

 

2-4 今作における価値のあるもの

 

 「美しいもの」として描かれる姿勢の輪郭が、なんとなく見えてきたように思う。どんな事情にあろうとも、受け入れて、そのうえで一歩一歩前進すること、決してでしゃばらないこと、己の役割を全うすること……これらを一番実践できているかどうかがわかるのは、死に直面したときであろう。こう考えると、物語の終盤が、老人たち、死をすぐそばに迎えている人々が最後の時間を過ごすエチュードで展開されたことは非常に自然な流れだと言える。

 エチュードでは、チェスのルールを忘れてしまった老婦人と対戦するシーンがある。

 

「決定的に何かが欠落してしまったのは間違いないにしても、そのことによって老婦人のチェスが根こそぎ駄目になっているわけではなかった。もしかするとルールなんて大した問題ではないのかもしれない、とさえ思うほどだった。」(P303)

 

 ここで、ルールが大したことないかもしれない、とまで書かれる。一作全体を通してチェスに真摯に向き合う物語だと言ってもいいほどの話の中で、である。しかし、チェスを指す姿勢は以下のように描写されるのである。

 

「チェック模様の海にゆったりと身をゆだねながら、同時に神経をぴんと張り詰めていた。」(P303)

 

 この姿勢こそが今作における理想とされるものである。受容することと、自分の足で一歩一歩進むことは両立できるということを指し示していてくれる。

 

 なんとなく、みなさんも今作における「価値あるもの」が掴めてきたであろう。それは受容の中のひたむきさであり、寛容の中の厳しさである。

 

 

 3、おわりに

 小川洋子の長編はすべて、一貫した静けさというようなものがあると感じていた。それは、なんとなく存在を感じられつつも、つかみきれないものであったが、今回の読書会を通して、少し見えたような気がしている。

 また、今回は取り上げなかったが、今作の大きな魅力のひとつとして素敵な大人たちの存在がある。マスターしかり、祖母しかり、老婆令嬢しかり。彼らの姿勢からも、一貫した美しさが伝わってくるように思う。

 今作を取り上げるきっかけである、「ハッピーエンドか? バッドエンドか?」という質問に答えたい。当初、私はバッドエンドではないと思うが、主人公が愛するミイラと再会できる直前で命を落とすというのはハッピーエンドというのも少し憚られる結末かと思ったのだ。

 しかし、今回しっかり読み直してみて、これはハッピーエンド以外のなにものであろうか、と思った。彼と、その彼を教えたマスターが最も愛した価値観を体現する人々の中でチェスを指し続け、チェスを通して愛する人の手を握ってあの世へ滑り落ちていったことのどこが悲劇であろうか。