レベッカの裏庭。

本の感想だったり、日々考えたことを書く。

「光のとこにいてね」――一人でいる時もひとりじゃないってこと

 まったく異なる環境で育った果遠と結珠がひょんなことから出会い、その出会いを人生の最も大事なところに仕舞ったまま生きていく、そういう話である。

 結珠は所謂“良いところの家”で育ち、無関心と無言を圧として扱う母親のもとで息苦しいと思いながら生きている。

 果遠は子育てに明確に向いていなかった母親のもとでギリギリの生活をしていく。その中で輝く存在がお互いだった。

 最初の出会いは団地。まったくの偶然。もしくは、親のせいである。

 そのあと、果遠が結珠を追いかけて高校で再会するけれど、またどうしようもない親の力によって二人は離されて、大人になってから再開する。

 正直に言うと、わたしは途中でこの本も離脱した。どうやらわたしは「親という子どもにとってどうしようもない存在によって苦痛を強いられる」ということに弱すぎるみたいだ。「汝、星のごとく」もそれが一番しんどかった。

 一度離脱して、しばらくしてもう一度続きを読み始めた。最後まで読み切った今は、親や環境や、ありとあらゆるどうしようもないことの中で生きるときの、それぞれの強さが違う形で表現されていたのか、と思う。

 

 果遠の強さの方がわかりやすい。わたしが一番果遠のことが好きだと思ったのは以下のシーンである。

 「直くんはずっと瀬々と手をつないでくれていた。身長も歩幅も違うし、汗ばんでうっとうしかっただろうに、離さなかった。信じる理由なんてそれでじゅうぶんじゃないの、と言いたかったけれど、(後略)。」(P415)

 

 果遠の寂しさや諦観が、こんなふうに優しい形で現れるんだ、と泣きそうになった。自分の子どもに対する親の甘さみたいなことがあんまりないから、ないからこその優しい眼差し。

 「信じる理由なんてそれでじゅうぶんじゃないの」という言葉の、眼差しの優しさは彼女の寂しさから来ているのに、どうしてこんなに優しいのか、と思う。

 

 それに比べ、結珠の強さはわかりにくい。しかし、彼女は最後、最も果遠が持ちえない強さを持って走りだすのである。

 

この話は結局、全然明るくない。でも、希望がある。

 わたしたちは、今、どれほど辛くても、ひとつの思い出を、ひとつの存在をお守りにして、胸に抱きしめて生きていける、ということをこのように描くのか、と思う。

 

「(前略)タイミングさえ合えば結珠ちゃんじゃなくてもよかったのかもしれない。写真を合成するように、結珠ちゃんがいたところに別の誰かを切り貼りしてもわたしは夢中になったのかもしれない。でもあの子だった。そして今も隣にいる。」(P390)

 誰かを好きになるって、そういうことだろう。この人でなければならない理由なんて、最初からあるわけじゃなくて、ただ、そうなった、ということ。それをどれだけ喜べるか、ということ。

 

「わたしたちは互いが互いのお守りだった。会えない時も、それぞれの生活に精いっぱいで思い出さえ見失う時も。それを瀬々が証明してくれた気がした。」(P424)

 これは恋愛の話なのだろうか。彼女たち二人の関係は恋愛と言い切れない。少なくとも、わたしは恋愛だと言い切りたくない。

 それを心の底から感じるのがこの文章を読んだときだった。「思いでさえ見失う時もお互いのお守りだった存在」に一般名詞が必要だろうか。

 

 

「悲しむ」という技術

悲しむって。技術なんだと思う。

 

 最近、とっても怒ってる人の話を聞く機会があった。それは正直、わたしの心をかなり疲弊させたんだけど。

 でも、この人はすっごく悲しいんだなあと思った。

 まあ、心理学でも「怒りは二次感情である」というのは、よく言われることである。まず、悲しみや傷つきがあって、それを守るために怒りという形で現れるというのは。

 それをしみじみ感じるとともに、「悲しむ」というのはひとつの技術なんだな、と思った。

 その話を母とすると、母は、「ああそうだね……昔、妹(わたしから見れば叔母)が、『喪に服す』ということについての講演を受けてたことがあったわ」と言っていた。

 

 昔、母は弟に「お姉ちゃんは怒る代わりに笑ってるよな」と言われたことがあるらしい。なるほど、と思った。

確かに、わたしも母は「悲しむ」タイプではないと思う。

 問題解決にすぐさま動くタイプで、それはものすごく有能でもあったけど、でも、確かに悲しむという余白をしみじみ感じるタイプではなかった。

 

 悲しむ、というのは、たぶん、すごく怖いことなんだと思う。弱い自分のままでいる、ということだから。

 

 早く強くなりたい。弱いままでいるとまた傷つけられるかもしれないから、早く変わりたい。

 そういう気持ちはすごくよくわかる。

 わたしがスーパーエゴと仲直りできたのは、「悲しむ」という技術を得たからだ。

スーパーエゴはわたしに向かって「おまえはこんなこともできないのか!だめなやつだ!」と言ってくるので、今までのわたしはそれに反論しようとしていた。「いやそんなことはない!」「じゃあこうしてこうして……」と、「だめな自分」じゃなくなるために、頑張ろうとしていた。

 でも、そうじゃなくて、「そうだよね……だめなやつだよね……しょんぼり……」と悲しむ、という技術を得たことで、仲直りが進んだと思う。

 これは、意外と難しいのではないか?

 特に対人関係であれば、弱いままでいる、というのは恐怖だ。弱いままでいる、弱いわたしを表現するということが悲しむということだから、悲しむというのは、自分から弱い立場に回るってことだ。

 このリスクを取れるためには、いろんな安心感がいるよね……としみじみ思った。そして、安心感があったとしても、必ず悲しめるというものでもない。

 やっぱり、悲しむというのは技術で、磨いていくべきものじゃないのかと思ったりするのだ。

「ぼくは勉強ができない」その代わりモテる。

爽快な物語である。それは、内容だけでなく、文体も大きく作用していると思う。

 するすると読めちゃう文体に、主人公である時田秀美のぶっちゃけ具合がのっかっていて、非常に読みやすい。そして笑っちゃう。

 あらすじは、こうである。母親と祖父と暮らす高校生時田秀美は、勉強ができない。しかし、勉強よりも大事なことっていっぱいあると思う。たとえばそう、モテることとか。その独特な視点をもってして描かれる“ふつう”の高校生活の物語である。

 この小説は、現代のいわゆる王道価値観に問いを投げかけるものではあると思うけれど、でも、重たい感じがまったくしない。

価値観を問い直す! いざゆかん! みたいな気合の入り方が全くしていなくて、「やれやれ~」「違うと思うんだけどなあ」という脱力した問いかけなのである。

 主人公の秀美は泰然自若としている雰囲気を醸し出しているし、嫌な大人に対しては非常にそうだけど、でも、実際は全然泰然自若としていない。

 年上の恋人である桃子さんとの関係に悩み、サッカーをして、友達とバカ騒ぎをするのである。

 それでも、醸し出されるどっしり感はなんなのだろう、と思っていたら、番外編「眠れる分度器」に答えが書いてあった。

「大人の女の立場から言わせてもらうと、社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男ってちっとも魅力ないわ。(中略)でもね、自分は自分であるってことを解っている人間にしたいの。」(P260)

 これは秀美の母の発言である。まさにこの教育方針のもと育てられたということがわかる一文である。

 自分は自分であると解っている人間、これって意外に少ないのではないだろうか。だからぼくはモテるんだよ、という秀美の声が聞こえてきそうである。

 

「カウンセリングとは何か」ド直球なカウンセリング論から見えてくるもの

ストレートな題名である。

 我が家では父が先に読み、

「これを読んで、カウンセリングできると思うなら、カウンセラーになれると思う。無理やと思うなら違う職業考えた方がいいな」

と笑いながら言われた。

 そんなに全体像が見えるのか、とドキドキして読んだ。

 

 内容についてなにかを言うのは難しい。カウンセリングとは何か、を説いている本について説く、というのはなんかよくわかんないし、難しい。

 もちろん、いろいろ学びが多い本作ではあるが、わたしが感じたのは、カウンセリングとは「嘘をつかないこと」「いなくならないこと」なんだな、ということである。

 これは、わたしの中の人間関係の哲学にかなり通じるものがある。

 「嘘をつかないこと」、これも簡単なようでむずかしい。嘘をつかない、というか、自分のままでいること、とでもいおうか。

 相手のために、自分を変えること、都合の良いことを言うことは意外と容易い。

どんなときも、心に嘘をつかず、自分の両足で踏ん張ること、これは結構難しい。

 カウンセリングはまさにこれが求められるだろう。河合隼雄は、「嘘をついたり、全然違うことを考えていたら、すぐばれる」と言っていた。

 

 「いなくならないこと」というのは、そのままの意味である。

 現代の人間関係では、「全然大丈夫ですよ~」と言われ、そののち関係性を切られる、というようなことも少なくないのではないだろうか。

 カウンセリングはその逆である。

 「すっごく嫌な気持ちなんですね」と、触れられたくないところに踏み入り、そしてそこで感情のぶつけ合いをしても、次の週にはまた会うのである。

 ちょっと距離を置くとか、フェードアウトとか、そういうことは基本的にはない。少なくとも、カウンセラーの側からはないだろう。

 

 もちろん、細かく言えば、カウンセラーはいろんな形で手助けをしているのだが、基本的な姿勢はこの2点だと感じた。

 

 そして、ここから感じるのは、人間への希望だと思う。

「嘘をつかないこと」「いなくならないこと」というのは、とても消極的なことだ。

実際のカウンセリングではもっと積極的なことも行われているとは思うが、基本的に地味で見えにくいところで、人は変わっていくのだと思う。

 これは、別にカウンセリングだけの話ではない。

 人にはみんな希望の種が眠っていると信じて関わっていけるというのは、日常でも杖になる事実ではないだろうか。

 

 それを象徴した一文を紹介したい。

 

「 ついてきてくれるなら行きましょう。

 

 これが勇気の正体です。」

 

 最後に、これを読んで、わたしは「カウンセラーできるかも……」と思ったということだけは言っておきたい。

2025年わたしセレクト5冊

ちょっと遅いのだが、2025年のわたしの5冊を選んでみたいと思う。

 順番は特に意味はない。

 

 ひとつめ、高田大介さんの「図書館の魔女 霆ける塔」。

 これの出版を何年待っていたと思うんだ~! という感じである。もはやこれが出版されただけでこのリストに入れたい(笑)。

 もちろん、中身はお墨付き。期待を裏切らないどころか、もっともっとワクワクさせてくる。次巻が待ちきれない。

 

 ふたつめ、彩瀬まるさんの「やがて海へと届く」。

 何度読んでも泣いてしまう。何度読んでも大好きだと思う。

 人生の寂しい部分に触れたとき、絶対に読みたい一冊。2025年に読んだ本を振り返って、「これ今年だったの⁉」と思うくらい、既に読み返している。心の中に大きな寂しさを抱えながら生きていくということを希望を持って描いている。

 

 みっつめ、吉本ばななさんの「キッチン」。

 吉本ばななさんにはまった1年で、その他もいろいろ読んだが、デビュー作はその人のすべてが出るってこういうことかあ、という感じがした。

 吉本ばななさんの作品の根底に横たわる景色はこれなんだな、と納得できる。

 

 よっつめ、少し毛色が変わって村上春樹さんの「アンダーグラウンド」。

 地下鉄サリン事件の被害者たちのインタビューをまとめた本である。

 2025年は、地下鉄サリン事件から30年の節目だった。これを読んで、「やっぱり死と生ってそんなに遠くないんだな」と非常に感じる。生き残った人々は、酸素マスクでギリギリ生き延びたかと言えばそうではなく、普通に出社していたりする。

 人間の強さと怖さと愚かさと美しさ、すべてがこの事件から見えるような気がする。

 

 いつつめ、凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」。

 正直に言えば、これは好きだ、という理由で選んだわけではない。というか、好きではない……たぶん。

 わたしにとってはこれはしんどすぎた。凪良ゆうさんの怒りがダイレクトに伝わってきすぎて、今でも思い出すだけで胸が苦しくなる。映画化のニュースを聞くだけでもしんどくなる。でもこれだけのインパクトを残せるということ自体が、もはや今年の一冊であるといえそうなので、選んだ。

 でも、ほんとうに痛い。夜中に読み終わったのだが、吐きそうだった。

 嫌いとかおもんないとかではない。痛くて痛くてしんどい、という感じである。

 でも、これが本屋大賞として現代に人気なのは、なんだかうれしいような切ないような事実だなと思う。

 

 以上、2025年のわたし的5冊でした。

 2025年は個人的には短歌への愛が深まったので、来年はいっぱい短歌を詠みたい。

 2026年もよろしくお願いします。

 

 ちなみに、読み終えた本はこちらのアプリで記録しています。良かったら↓

さよりの本棚 (さより) - ブクログ

 

 

 

 

 

賢いって自由だと思える一冊「図書館の魔女」

 このシリーズとの出会いも、はっきりと覚えている。中学の図書室に文庫本版が置いてあったのだ。

「図書館の」「魔女」それぞれだけでも魅力的な単語の並びに、わたしはしっかりと目を付けた。たぶん、あの学校であれを借りて読み切った最初の人間がわたしだったと思う。その証拠に、新品同様に綺麗だった。

 ストーリーを説明するのはむずかしい。ものすごく雑に言うと、知識と工夫で戦争を止める、という話になるだろうか? でもこれでは全く魅力が伝わらない。

 この物語の魅力は、一に登場人物の魅力、二に圧倒的な知識の裏打ちにあると言えると思う。

 でも、想像しやすいようにある程度のあらすじはあった方がいいかと思うので、文庫版一巻の裏表紙にあるあらすじを引用する。

「鍛冶の里に生まれ育った少年キリヒトは王宮の命により、史上最古の図書館に暮らす「高い塔の魔女」マツリカに仕えることになる。古今の書物を繙き、数多の言語を操って策を巡らせるがゆえ、「魔女」と恐れられる彼女は、自分の声を持たないうら若き少女だった。」

 この本には、ありとあらゆる知識が出てくる。著者の専門分野である言語学に関することが多いが、しかし、歴史、地理および文化に関する話も非常に面白い。

 正直にいうと、本書で出てくる学術的な話をすべて理解するのは、たいていの人には無理だ。わたしももちろん理解していないし、このシリーズが大好きな母や叔母も「難しいところはあんまりよくわからない」と言っている。

 それでも、理解できなくてもおもしろいというのがすごいところだ。理解できる欠片から、そこにある世界の奥行きをなんとなく感じ取るだけでも心が震えるのだから、学問というのは素晴らしい。

 でももちろん、それだけが魅力の物語ではない。一番の魅力はやっぱりキャラクターだろう。主人公であるキリヒトとマツリカ、それぞれの魅力だけでなく、ふたりの関係性もたまらない。ただの忠誠じゃないし、恋とも言い切れないし、愛情といえばそうだけどそれだけじゃないし、という言葉にできない魅力、言葉にならない関係性がまざまざと描かれているのである。読み終わったとき、あなたがマツリカとキリヒトのことを大好きになっているのは間違いないし、それぞれを大好きなだけじゃなく、ふたりを丸ごと抱きしめたいような大好きになっていることは想像に難くない。

 ほかにも魅力的な登場人物は多い。しかも、多すぎない。誰だっけ、となるほどではなく、でも、振り返れば意外と数がいる、という見事な登場の仕方をしていると言えるだろう。

マツリカも人当たりがいいとは決して言えない。でも、どうしてこんなに魅力的なんだろう? と考えてみた。

 私の中で、マツリカのイメージは凛と顎をあげて立っている姿である。変に力が入っていないけれど、決して弱くない。いろんな問題もあり、解決できないこともあるけど、それでも顔をあげて前を向いている姿。

 その姿が、たぶん、「かっこい~!!」となるのだ。わたしの中の憧れをくすぐる。マツリカの弱い所が描かれていないわけでは決してないのに、なぜか強靭なイメージが最後まで崩れない。弱さやハンデとは全く関係ないところに、彼女の強さの土台があるのだろう。それがマツリカの魅力の源泉かもしれない。

 ちなみに、このシリーズは四部作で完結予定である。今出版されているのは、第一部「図書館の魔女」、第二部「烏の伝言」、外伝「高い塔の童心」である。2025年夏に第三部が出るらしいが、あんまりそれは期待しないようにしている。遅筆で有名な作者なのである……。

 本書を読む、というのは正直、頭を使う。仕事でへとへとになった日の晩に気分転換に読むというのはちょっとむずかしいかもしれない。

 でも、長期休暇にでもぜひ手に取ってほしい。読書の良さをこんなに端から端まで感じられる本はなかなかない。

 

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「やがて海へと届く」――誰かを亡くしても生きていくということ

 読み終わった後に、すごく静かな気持ちになった。静かな気持ちだけど、絶対にあたたかな気持ち。

 物語としては、端的に言ってしまえば喪失のその先で生きていく、という話だ。友人のすみれを亡くした主人公の真奈が、それを乗り越えていく話。

 でも、いや、だからこそ、大事な人の喪失を書いているからこそ、これは愛の物語なんだなあ、と思う。正直、これを書くのもまあまあこっぱずかしいが、そう思うのだから仕方ない。

 この話は、わたしたちの奥深くにこっそり閉まってある気持ちを撫でてくれるような感じがする。泣きたくなるような気持ちを覆い隠さず、拾い上げるのでもなく、ただ撫でてくれるような。

 主人公の真奈は、親友であるすみれを忘れることが、すみれに対して不誠実だと思っている。だから痛みを必死で抱きかかえるようにしている。それが、すみれを忘れないということだから。

 その気持ちも痛いほどわかる。わたしは幸運なことに、思いもよらぬ人を亡くしたことがない(90歳を超えて大往生した祖父はこれには当てはまらないだろう)けれど、死者を忘れることの恐ろしさはなんとなく理解できる。

 でも、この物語は、きっぱりと死者を忘れるのでもなく、痛みを抱くのでもなく、死者とともに生きていく道もあるんじゃないの? と問いかけてくる。

 また、この話は愛の話であるが故に孤独の話でもある。孤独への恐怖をまざまざと描く。わたしたちは自分が忘れられるのが怖いから誰かを忘れたくないのだろうし、一人で世界に立ち向かうのは怖すぎるから、誰かにそばにいてほしいんだろう。

 でも、この本は、結局みんな別の生き物なんだよ、と言ってくる。それはまあまあ痛くもあるけれど、どこかほっとすることだと思う。その先に、でもこんな風に人は寄り添えるよ、と添えてくれているからだろうか。

 死者だろうが生者だろうが、別の生き物には変わりなく、わたしたちはそれぞれのものしか背負えない。大好きな人が死んだその瞬間に、なにも気づかずに寝ていたりする。

 それでも、わたしたちは関わり合って、混ざり合って、支え合って、なんとか波を乗り越えていく。いつか、忘れるときがきても、忘れられるときがきても、それでも気づかぬうちにお互いをお互いの内に秘めている。

 そうやって生きていくんだ、そしてそうやって死んでいけるんだ……と思うと、静かな温かい気持ちになる。

 誰かを想うって素敵なことだな、と思える。