「悲しむ」という技術
悲しむって。技術なんだと思う。
最近、とっても怒ってる人の話を聞く機会があった。それは正直、わたしの心をかなり疲弊させたんだけど。
でも、この人はすっごく悲しいんだなあと思った。
まあ、心理学でも「怒りは二次感情である」というのは、よく言われることである。まず、悲しみや傷つきがあって、それを守るために怒りという形で現れるというのは。
それをしみじみ感じるとともに、「悲しむ」というのはひとつの技術なんだな、と思った。
その話を母とすると、母は、「ああそうだね……昔、妹(わたしから見れば叔母)が、『喪に服す』ということについての講演を受けてたことがあったわ」と言っていた。
昔、母は弟に「お姉ちゃんは怒る代わりに笑ってるよな」と言われたことがあるらしい。なるほど、と思った。
確かに、わたしも母は「悲しむ」タイプではないと思う。
問題解決にすぐさま動くタイプで、それはものすごく有能でもあったけど、でも、確かに悲しむという余白をしみじみ感じるタイプではなかった。
悲しむ、というのは、たぶん、すごく怖いことなんだと思う。弱い自分のままでいる、ということだから。
早く強くなりたい。弱いままでいるとまた傷つけられるかもしれないから、早く変わりたい。
そういう気持ちはすごくよくわかる。
わたしがスーパーエゴと仲直りできたのは、「悲しむ」という技術を得たからだ。
スーパーエゴはわたしに向かって「おまえはこんなこともできないのか!だめなやつだ!」と言ってくるので、今までのわたしはそれに反論しようとしていた。「いやそんなことはない!」「じゃあこうしてこうして……」と、「だめな自分」じゃなくなるために、頑張ろうとしていた。
でも、そうじゃなくて、「そうだよね……だめなやつだよね……しょんぼり……」と悲しむ、という技術を得たことで、仲直りが進んだと思う。
これは、意外と難しいのではないか?
特に対人関係であれば、弱いままでいる、というのは恐怖だ。弱いままでいる、弱いわたしを表現するということが悲しむということだから、悲しむというのは、自分から弱い立場に回るってことだ。
このリスクを取れるためには、いろんな安心感がいるよね……としみじみ思った。そして、安心感があったとしても、必ず悲しめるというものでもない。
やっぱり、悲しむというのは技術で、磨いていくべきものじゃないのかと思ったりするのだ。