わたしは小野不由美の短編集が好きだ。毎回読むたびに好きだなあ、と思うのだけど、最近読み返して好きだなあとしみじみ感じたのは、表題作「丕緒の鳥」と「風信」だった。
どちらも、浮世離れした人たちがどのように現実と向き合っているかを書いた物語である。
丕緒の鳥では、射儀(めでたいときに行う儀式)を司る丕緒が主人公である。彼は、長年その立場にいる中で、大事な人たちを失い、王や政に不信感しか持っていない。そんな彼が、昔の仲間であり、技術者であった簫蘭のことを思い出す。簫蘭は「嫌なことを見ていたって仕方ない。それよりきれいなものを見ていたい」と言って現実を見ようとしなかった。そんな彼女にずっと丕緒はあきれていたのだが、ふとそうではなかったのではないか、と思う。
「世界に背を向け閉じ籠っていたのは簫蘭も同じだったが、簫蘭は陶鵲を作ること、両手を動かしてそこに喜びを見出すことをやめなかった。いまになってそれこそが簫蘭なりの、世界と対峙する、ということだったのかもしれない、と思う。」
ここを読んで、思わず息を大きく吐いた。手の中にある卑近な喜びを見出すこと、それをやめないこと、自分の手を動かし続けること。その中に世界を向き合うことが内包されている。わたしたちは自分の手のひらを見つめているとき、世界を見ているのかもしれない。
「風信」は、前王の悪政によって家族も故郷も失った少女蓮花が暦を作る仕事をしている人たちの下で下働きをする話である。暦を作るという仕事をしている彼らはとても変人である。ひたすら花粉の数を数えたり、セミの抜け殻を集めたり。蓮花は最初、己が通ってきた過酷な世界をなにも知らずにのうのうと過ごす彼らに怒りさえ覚えていたが、そのうち気持ちが変わってくる。
「浮き世のことも基本的には眼中にない。ない、と言うより、外界のことをいつも失念している。そうと分かっても、蓮花は以前ほど冷ややかな気分にはならなかった。それというのも、嘉慶らは結局のところ、精度の高い暦を作ることに熱心なのだし、信頼できる暦を作ることがどうして必要なのかを分かっているからだ。そこだけは忘れないし、そこに強い責任感と誇りを持っている。」
これもまた、自分の興味という狭い範囲の中で世界に向き合う人たちに対する言葉だろう。彼らは決して真正面から過酷な現実に向き合っているわけではないが、それでも、現実のために何か還元しようとしているのだ。彼らの小さな世界と外の世界は区切られてはいるけれども、決して分断されてはいない。
日ごろ何も考えずおざなりにしていること、例えばセミの抜け殻とか、渡り鳥のヒナの数とか、それらから世界へとつながる人々もいる。
そう思うとなんだか安心して、わたしは自分のことに一生懸命になれそうな気になるのである。